人物紹介Part.2(Ms.T)

生徒も講師も増え、徐々にブログを担当する機会が減ってきた松尾ですこんばんは。
事務作業も山積しているのでうれしいといえばうれしいことなんですけどね!

そして、本日差し入れとしてモンスターエナジーを頂きまして。
夜半眠くなることもありますので、とてもありがたいのですが、自分が普段から余程疲れた顔をしているんじゃないか、と深読みして微妙な気持ちになった松尾ですこんばんは(二回目

近所に咲く桜が風に吹かれて花を散らし、それはそれはきれいな様相を呈していたのですが、さすがに散るものもなくなってきて葉桜になってきましたね。
気付けば新年度4月も半ば、時が経つのは早いものですねぇこんばn(以下略

さて、というわけで、本日は室長 髙木より振られております、新紙幣の人物紹介Part.2としゃれこみたいと思います。
タイトル通り、本日はMs.T、津田梅子についてですね。

【新5000円札】 津田梅子

明治維新を目前に控える1864年、江戸に生まれる。

父は幕臣であり、梅子の生後間もなく職を失うこととなるが、ホテル勤めや北海道開拓使などの職に就き、梅子も住まいを転々とする。

開拓使次官であった黒田清隆が女子教育に関心を持つ人物であったことから、黒田が企画した女子留学に娘の梅子を応募させる。
この応募こそが、かの有名な”岩倉使節団”に参加することとなる。
岩倉使節団最年少として渡米し、11年にわたってアメリカ留学をすることとなる。

このとき、大山巌夫人で愛国婦人会理事、赤十字篤志看護会理事を務めた大山(山川)捨松や、幕軍医永井玄栄の幼女で瓜生男爵夫人の瓜生(永井)茂子らと親しくなる。

アメリカでは、初等・中等教育に加え、ピアノ・ラテン語・フランス語・英文学に自然科学・心理学・芸術などを学び、キリスト教徒としての洗礼も受けた。

幼少期から渡米していたことに加え、長年のアメリカ暮らしの結果、卒業後帰国した際、日本語が不自由になっていたり、日本の風習に馴染めなくなっていたりと苦労をしたそうな…

帰国後、再び伊藤博文と会いその伝手で華族子女私塾の英語教師となる。1885年には学習院徐学部から分離設立された華族女学校で英語を教えることになるものの、上流階級に馴染めず1888年に再度留学数ことを決意する。

2度目の留学では、フィラデルフィア郊外のBryn Mawr Collegeで生物学を専攻する。
さらに卒業後は教授法について勉強を行うとともに、講演会や募金活動などを行い日本女性留学のための奨学金制度を整備するなど、尽力する。

1982年に帰国し、再び女子華族院で教師を行うが、自宅でも女学生を教えるなど積極的な援助を行う。
1900年に辞職してからは、先の大山捨松や瓜生茂子、家族の支援を受け津田女子英学塾、今の津田塾大学を設立する。
当時の女学校といえば、行儀作法を中心に習い、その延長としての女子教育が一般的だったが、現在と同じように教養・知識としての学習をさせたことから非常に評判がよかった。
…その分とっても厳しかったそうで、脱落者も相次いだそうですがね…

華族と平民とを差別しない女子教育を目指して、一般女子に対して進歩的な自由で高いレベルの教育を行った。
独自の教育方針のため、資金援助を最低限に抑えていたので、経営は苦しかったそうで…

この女子塾設立当初に体調を崩したことから、早々に塾長の座を退き、闘病生活を行うことに。
鎌倉の別荘で闘病後、1929年8月16日64歳で生涯独身のまま死去。


というのがざっとした略歴ですね。

そして上にも書きましたが、やはり津田梅子といえば津田塾大学!

国公立の女子学校のトップといえば『お茶の水女子大学』ですが、私立のトップといえば『津田塾大学』ですよね。
英文学や国際関係学の分野で著名卒業生を多く輩出しており、女性の社会進出に今なお貢献し続けている大学ですね。

女子差別撤廃条約批准や、男女雇用機会均等法の設立に津田塾OGが深く関係しているそうですね。

明治維新や、文明開化の時代、どうしても為政者や、外交に関わった人間が印象深いですが、その時期から女性の社会進出、教育について活躍をしてきた津田梅子も非常に立派な人物ですよね。

今なお、男女の格差がどうこう騒がれている世の中ではありますが、それでも教育の機会や進出の機会は明治期に比べて大きく増えています。
これの大きな立役者、津田梅子をぜひ、新紙幣を見るたびに思い出してみてください!(謎

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