人物紹介Part.3 (Mr.S)

今週の日曜日に出張る用事があったため、期日前投票に行ってきました松尾ですこんばんは。

期日前投票とやらは初めて行ったのですが、まぁ普通に投票でしたね、知ってた。
整理券の生年月日欄に今日の日付を書こうとして、というか書いてしまいまして。
どや顔で平成に丸を付け、その隣に31、と書いたわけですが、係の人にすごい不思議な顔されたのを忘れません。
いや目の前で見てたんだからいってくださいよ…

とまぁ、私のショーモナイ失敗談はさておき。
なぜか2日連続での投稿になりましたが、本日は新紙幣の人物紹介、第三弾、最終回となります。

【新1万円札 渋沢栄一】

言わずもがな、銀行の父、日本資本主義の父、ですね。
言わずもがな、とか言ってますがとりあえず身近にいた2名には知らん!といわれたのであまり有名じゃないのかな…
いやでも新紙幣になるくらいだから有名なはず…

江戸時代末期の1840年、現在の埼玉県、武蔵國榛沢郡血洗島(ちあらいじま)の豪農の息子として生まれる。


…いつもの感じならこのまま紹介を続けていくのですが、この地名、さすがにツッコミたいので少しお付き合いください。

血洗島なんてかなりインパクトの強い地名ですよね。
なんていうかすごい物騒。
血で血を洗うみたいな。
渋沢栄一自身も、自分の出身地であるこの地名に対して、『恐ろしげなる この村名』と言っています。
由来は諸説あるようですが。

近くにそびえる赤城山の霊(ムカデと言われていますね)が日光山の霊(こちらは大蛇だそうで)と戦った際に片腕を怪我し、その傷口をこの血洗島で洗ったから。

その昔、合戦が近くであり、そこで武士の一人が切り落とされた片手をこの地で洗ったから。

あるいは、アイヌ語に端を発するといった説もあるそうです。

また、埼玉という内陸県にありながら”島”とついているのは、利根川氾濫の際に島になった、といったあたりから来ているようですね。

はい、話を戻しましょう。


豪農生まれ、まぁざっくり言ってしまうとお坊ちゃんだったわけですが、5歳から読書、7歳で四書五経(儒教の有名な教科書みたいなもの)を読んでいたなどかなり賢い子だったようです。
生家では農業だけでなく、藍玉の製造販売、養蚕、そしてその原料の買い入れ販売も行っていたため、幼少時から数字とにらめっこする機会が多く、14歳ですでに単身仕入れに出向くようになっていたそうです。
この経験がのちのちの資本主義システム、合理主義思想につながっていったそうです。

剣術も習い、神道無念流を学んだ後、江戸で北辰一刀流お玉が池千葉道場に入門。
このお玉が池千葉道場は、かの坂本龍馬を輩出するなど、勤皇、尊王攘夷思想の色濃い道場として非常に有名です。
渋沢もその影響を受け、尊王攘夷思想に走る。
しかも割と過激な方向に走り、横浜を焼き討ちにし長州と連携、幕府を倒す計画を立てていた。
結局従兄弟の説得で実行はしなかったようですが…

その後、京都に上ったものの八月十八日の政変により政情が一変、志士活動に行き詰ったことから紆余曲折経て一橋慶喜(のちの徳川慶喜!)に仕えることとなる。

その慶喜が将軍になるタイミングで幕臣となり、パリ万国博覧会に随行することで欧州各国の先進的な産業・軍備を直に見るとともに、社会情勢に触れ感銘を受ける。
大政奉還とともに、帰国し(実質は随行していた徳川昭武が召還された)、仕えていた慶喜から「お前の道を行きなさい」と言われ、フランスで学んだ株式会社制度の実践や新政府からの拝受金返済のために静岡で商法会所を設立。
そして大隈重信によって大蔵省官僚に抜擢され、近代日本初であり尺升匁からなる度量衡制度の制定、国立銀行条例の制定に携わる。
しかし予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信と対立したため、1873年、明治6年に井上馨とともに退官。
2年後の1875年に現在の一橋大学のもととなる商法講習所を森有礼とともに設立する。

そしてここからが日本資本主義の父と呼ばれる所以となる様々な銀行、企業の立ち上げに関わることとなる。

始めに、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取に就任。
この第一国立銀行は様々経て現在みずほ銀行となる。

七十七国立銀行をはじめ、地銀の設立や、企業の設立に尽力するようになる。
現在誰もが名前を知っているような、東京ガス、東京海上日動火災保険に始まり、キリンビールやサッポロビール(正しくはホールディングス)、帝国ホテルに東京証券取引所などなど…
多種多様な企業の設立に関わり、その数500を超えるといわれている。

そして1931年昭和6年11月10日に正二位に叙せられるも、翌11月11日に91歳で永眠。

二つ名の通り、企業家、ビジネスマンとしての印象が強い渋沢栄一ですが、実は社会貢献や教育活動にも非常に熱心に取り組んでいたそうです。

上述のとおり、森有礼と設立した商法講習所は現在の一橋大学となっていますし、鹿鳴館や帝国ホテル、帝国劇場などの設立関係者として知られる大倉喜八郎とともに設立した大倉商業学校という学校は現在の東京経済大学になっています。
設立以外にも、現在の二松學舎大学である二松學舎の第3代者舎長、学校法人国士舘の設立・経営、新島襄が作った同志社大学への寄付金取り纏め、女子教育奨励会の設立など、数多くの寄与をしています。

社会貢献で言えば、現在の東京都健康長寿医療センターの前身で院長を務めていたり、東京慈恵会、日本赤十字社の設立に携わっていたり、聖路加国際病院初代理事長を務めていたり…

上げればきりがないほど様々なことに貢献をしていた人物であることがおわかりいただけるのではないでしょうか。

今や日本企業といえば世界に通用する、力ある企業ですが、その素地を作ったのがこの渋沢栄一氏なんですね。

これだけ経済・社会に影響を与えた人物ですし、今のお金の本当の大本を支えていた人物ですから、紙幣の肖像候補に何度も選ばれていたようです。
しかし、髭がないとダメ、というルール(今はもうなくなりましたが)で不採用が続いていたそうで…
この度の採用は、はれての採用、というところでしょうか。
日本資本主義の父、ぜひ思いを馳せながら1万円札を使いたいですね!

と、いうわけで、新紙幣3名のざっくりとした紹介記事、いかがでしたでしょうか。
軽く調べながら書いては居りますが、なにか間違いなど失礼があったら申し訳ありません…
気になった方はぜひもっと詳しく調べてみてください。

まぁ、この新紙幣、実際に使用されるのは2024年と5年先のことなんですけどね…

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