人物紹介!!(Dr.K編)

皆さまこんばんは!
昨日は4月も10日過ぎたっていうのにみぞれ交じりの雨が降り凍え死ぬかと思った松尾ですこんばんは(二回目の挨拶

みせた人から軒並み「見づらい」とクレームが来てるみぞれです。
み ぞ れ です。(見づらいわかりづらい

さて、振られたフラグはきっちり回収する派閥の私ですから、きっちり回収していきましょう。

そうです、人物紹介というのは講師紹介でもスタッフ紹介でも、ましてや生徒紹介でもなく、新紙幣の人物紹介です!

ちなみに長文だと読むのがメンドクサイ、と私の隣に座っている方からクレーム?が来てるので一人ずつ紹介していきましょう。

さぁ、さくさく行ってみましょう。

【新1000円札】 北里柴三郎

1852年 熊本生まれ。
熊本医学校を経て、医科大学(現:東京大学医学部)を卒業後、ドイツに留学。
ドイツで結核菌・コレラ菌の発見、ツベルクリンの発明などの業績を残した『近世細菌学の祖』と呼ばれるR.コッホに師事。
ドイツ留学中1889年に破傷風菌の純粋培養に成功。
翌1990年には破傷風菌抗毒素を発見するなど、ここまででも世界の医学会に大きな功績をあげた。
これ以外にも血清療法の開発、ジフテリアへの応用などを行い、第1回ノーベル生理学・医学賞の最終候補(名誉ある15名のうちの1名!)に残るなど、国内外から大きな評価を受け国外からのオファーが集中したが、『日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである』とオファーをすべて固辞し1892年に帰国。

帰国後は、福沢諭吉(旧一万円札!)の援助を受け設立された私立伝染病研究所の初代所長となる。
その後、この研究所は国に寄付され、国立伝染病研究所(現:東大医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学の研究に取り組んだ。

その後、国立伝染病研究所との対立を経て、私立北里研究所(現:社団法人北里研究所、かの北里大学の母体)を設立し、狂犬病やインフルエンザ、赤痢、発心チフスなどの結成開発に取り組む。
帰国後便宜を図ってくれた福沢諭吉の没後は、恩義に報いるべく慶応義塾大学医学部創設に尽力し、初代医学部長、付属病院長となる。
ここでは終生、無給で尽力し慶應義塾医学部の発展に多大な尽力をした。

と、まぁ、ざっとこんなところですかね。

明治期に入ったものの、まだまだ欧米列強と比べると存在感が希薄であった当時の日本において、諸外国の大学からオファーを受けるなど非常に脚光を浴びていたにも関わらず日本という国に寄与するべくすべて断る。
など、科学者として、一日本人として非常に人間性のある方だったことがうかがえます。
福沢諭吉への感謝の念も忘れることなく、慶應義塾大学医学部発展に尽力していたことなども注目すべき点ですね。
自身の北里研究所からもハブの血清療法で有名な北島多一教授や、赤痢菌を発見した志賀潔教授などを送り込むなど、驚くべき尽力っぷりだったそうですね。

医学の発展への寄与も目を見張るものですが、それと同じかそれ以上に、こうした人間としての尽力や功績が認められた結果の紙幣人物への登用と考えれば、大いに納得のいく話です。

ちなみに、東京大学や国とあまり仲がよろしくなかったようですが…

どうも、東大在学中から、教授の論文に批判的な口出しを行っていたため、大学側から疎まれていたり…
同郷で同期であり、さらにはドイツへの留学の口利きをしてくれた緒方正規が提唱していた説へ批判をした結果またまた東大と対立したり…

なかなかロックな面(?)もあったみたいですが(笑)

閑話休題。

折角、令和に元号も変わり、紙幣の人物も一新される、この時期。

これをきっかけに日本史ではないものの、有名な日本人についてもう一度学びなおすというのも一興ではないでしょうか!

私の記事なんて、私の知っている知識や軽く調べた内容程度ですので、興味がわいた方はぜひご自身でも調べてみてください。

次は新5000円札の津田梅子に関して記事を書けたらなぁ、といったあたりで本日は失礼します!ドロン!!

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